richardkoshimiizu's blog

衆参不正選挙で政権を詐取した自民公明偽政権は、安倍晋三偽総理の背後のユダヤ金融資本に操られ、極東で戦争を引き起こそうと画策しています。息子を戦場で犬死させたくないなら、ともに立ち上がり闘ってください。

国共内戦

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世界の設計者を気取る一握りの人たちの悪ふざけのおかげで、庶民一人一人の人生は翻弄され、苦悩の日々を歩まされる。そこには時として「感動と興奮の人生劇場」が生まれるが、それとて、ユダヤ大富豪の身勝手な世界戦略の小さな小さな副産物に過ぎない。最前線で果敢に敵と戦い、戦死はしたが作戦上、大勝利を呼ぶ働きをしたと賞賛される。だが、その「壮烈な戦死」すら、大富豪の世界戦略遂行上必要だった捨て駒に過ぎず、大富豪にとって、その個人の死は、一時の感傷すら呼び起こさない。ゴイムひとりひとりの死や苦難など、脳裏を掠めもしない出来事なのである。 戦後の冷戦体制を構築する過程で、ユダヤ権力は中国の共産化を進めた。1945年、日本が敗北した後すぐに、蒋介石の国民党と毛沢東共産党の内戦が始まる。兵力、兵装、資金力どれをとっても、国民党軍が圧倒的に優位にある。普通なら、非力な共産党軍が蹴散らされ、戦後の中国は蒋介石によって平定・支配されるはずだった。だが、ユダヤ権力の都合で、国民党軍はあちこちで見事に惨敗し、追い詰められていく。八路軍(共産軍)の戦法は、「都市の孤立化」である。大都市周辺を攻略して、大都市を孤立化させ、大都市間の連絡を絶つ。国民党軍は、空輸で物資を供給して持久戦を戦い抜こうとするが、その空港・空軍基地を集中的に攻撃されて、補給が出来なくなる。パラシュートで物資を投下するが、半分は共産側の支配地域に落下してしまう。八路軍は、大喜びで物資を横取りして、それらの武器弾薬食料を用いて、国民党軍を攻める。 孤立し、物資が不足した都市に立て籠もる国民党軍は、共産軍に包囲される。国民党の司令官は、抵抗すれば、皆殺しにされるのを知っている。自ら白旗を掲げ、10万の国民党兵士を率いて、八路軍に寝返る。共産党幹部は、降伏してきた国民党軍にすぐさま思想教育を施して、自軍に組み込む。同時に捕獲した米国製兵器を次の戦闘に投入する。元国民党の米製兵器の専門家に使い方の指導をさせる。共産軍の兵力は、帰順部隊を吸収して、どんどんと強化されていく。中国東北部の要衝、四平が共産軍の手に落ちる。北京北方の錦州を八路が攻略する。東北部と北京、天津が分断される。孤立した長春吉林の国民党が大挙して帰順してくる。東北部が完全に共産軍の手に落ちる。そして、天津が激戦の末陥ち、北京は無血開城される.....。以後、戦線は華中、華南に移り、国民党軍は追い詰められていき、1949年、蒋介石は残党を引き連れて、ついに台湾に逃げ込む。共産中国が誕生する。 この過程で、実は多数の日本人が、共産中国の実現に寄与している。満州に居留していた医療関係者が、共産軍に半ば強制的に組み込まれる。東北部の共産軍の病院の医師、看護婦の半分は、実は、日本人だった。献身的に治療をしたので、評判はよかった。軍人として、八路軍に加わった旧日本軍人も1万人近くいた。どちらも、帰国できずに大陸で戦病死した人たちが多かったようだ。これらの日本人の貢献を中国共産党が公に評価したという話は聞いたことがない。だが、残留した日本人が中国共産党首脳にあたえた「好印象」が、その後の日中関係に影響しているであろうと推測する。こんな闘いの中で人生の最初の三十年を翻弄されたひとりの日本人がいる。 山口盈文は、1929年、岐阜県の寒村に生まれる。静岡の鷲津に移り住み、祖父が経営する料亭のお坊ちゃまとして、不自由のない幼少時代を送る。祖父が株の相場で破産し、一転して、貧窮する。尋常高等小学校の高等科を卒業する頃になると、進路を決めなくてはならない。勉強は出来ない。予科練にはいるか、満蒙開拓義勇軍に入るかの選択を迫られる。教師は、義勇軍志願者を確保するノルマを与えられているので、さかんに義勇軍入隊を勧める。「狭い日本であがくよりも、日本男児と生まれたからには、胸のすくような満州の大原野を自由に拓く男児となれ」と挑発する。三年間奉公すれば、広大な農地を与えられ、独立して大地主になれると聞かされる。農業の経験などないのに。頭もよくないし、貧乏だから、中学にはいけない。父親は、予科練よりも死ぬ確率の少ない義勇軍応募を容認する。 1944年五月、新潟港から船に乗り、朝鮮を経て、現在の黒龍江省の勃利訓練所に入所する。ソ連沿海州との国境のすぐ近くだ。南方ではすでにガダルカナルの激戦が行われ、日本軍は劣勢に回っている。開拓義勇軍のはずが、予期されるソ連軍の進入に備えて、実質、軍人として使役される。まだ、15歳だ。1945年8月9日ソ連の戦車軍団が攻めてくる。(8月9日?誰かの誕生日だったな。w)混n乱の中、勃利訓練所に逃げる。それから逃避行が始まる。道すがら、逃げることに疲れた日本人開拓民があちこちで自殺しているのを見る。子供を抱えた母親から、殺してくれと懇願され、あわてて逃亡する。遅まきながら敗戦を知り、東京城捕虜収容所に徒歩で行軍する。渡河の際に一緒に移動していた開拓団の女子供は、次々と流され上陸してこない。ごっそりと数が減る。収容所は、零下三十度で暖房などない。給食はないも同然なので、鉄条網をかいくぐって近隣の畑から食料を盗んで命をつなぐ。仲間が次々と死んでいく。 ある日、ソ連兵が160センチくらいの棒を持ってきて、日本捕虜を整列させる。棒よりも背の高いものが選別される。体の大きいものは、シベリアに送られ、使役される運命となる。背が低い山口は、身長を測ってももらえずに「残留組」にまわされる。延吉収容所への移動を命ぜられる。部隊は徒歩で移動を始めるが、山口は赤痢にかかり、落伍する。ひどい下痢に悩まされ、ズボンを脱いでよろよろと歩いていると、朝鮮族のおばあさんに助けられる。片言の日本語で世話を焼いてくれる。自宅に連れて行き、温かいお湯で尻を洗わせてくれる。たらいのお湯で体を洗いぐっすりと眠る。起きたら粟粥を食べさせてくれる。おばあさんは、行くな、ここにいろと薦めてくれる。だが、仲間の元に戻りたい。「朝鮮族のおばあさんの親切は、一生忘れない」と執筆時77歳の山口は語る。 延吉収容所には、日本人の医師、看護婦が50人ほど働いていた。病院の伝染病病棟に収容され、夢のような入院生活を送る。だが、病院の外は地獄だ。朝になると必ず、仲間がひとりふたり凍死して、こちんこちんに固まっている。担架に死体を載せて近くの山に埋葬に行く。だが、土が凍っているので穴を掘れない。山林に放置するだけだ。あとは、野犬や狼が「処置」してくれる。「こんなところにいたら死んでしまう。義勇軍の上級生から受ける暴行も耐え難い。」死体の埋葬作業を買って出て、仲間二人と逃亡する。捕まれば、上級生にリンチされて、殺される。脱走して朝鮮を目指す。途中で、何度も中国人に助けられる。豆腐屋で温かい味噌汁を振舞われる。お礼に仕事を手伝う。ひとりになる。また逃避行を続ける。いきさつがあり、雇われた牧場で羊20匹をソ連軍に献上してしまい、逃亡中捕らえられ、朝陽川の警察署に収監される。ここで死刑判決を受ける。だが、死刑執行前に、朝陽川に八路軍が進出してくる。山口に死刑判決を下した連中は、みな、逃亡してしまっている。山口を尋問した八路軍幹部は、流暢な日本語を話す。日本の大学に留学した経験があるらしい。八路軍のした働きに採用される。軍の最高幹部の局長にかわいがられ、公光哲という中国名を付けてもらう。論語から取った名前だそうだ。
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その後、「小公」は、正式に八路軍の兵士となり、共産党幹部に愛されて行軍を共にする。共産軍は、東北部全土で人民裁判を実施する。「軍閥や役人と結託し農民を苦しめた地主や資産家」が民衆の前に引っ張り出される。農民たちが「借金のかたに畑を取られた」「娘を売春宿に売り飛ばされた」「虐待を受けた」と糾弾する。裁判の結果は最初から分かっている。「死刑」だ。小公に死刑執行役が命ぜられる。囚人の左肩に左足を乗せ、銃で後頭部を撃ち、同時に、左足で体を穴に蹴落とす。だが、直前になって、その身なりのよい品のよい囚人が、振り返って「あなたの姓は?」と尋ねる。死を前にして泰然としている。小公の代わりに、党幹部が囚人に答える。「姓は人民だ!」怖くて、目をつぶって撃ったので、急所をはずしてしまった。死に切れない囚人は、小公を睨む。幹部がすぐさま頭と心臓を撃って絶命させる。東北部全体で数十万の地主・資産家が処刑されたという。山口は、「そこまで断罪する必要は?」と疑問に思う。 その後、四平や錦州の闘いにも参加する。砲兵部隊に配置換えされる。どうやら、教育のある日本人に「弾道計算」の指導をさせようと考えたようだ。無教養の共産軍兵士に、高等科の幾何の授業を思い出しながら、「ニュートンの力学。。。。。」何たらかんたらと苦心惨憺説明をする。「おらだちゃ、そったらことわがんねから、距離の計算法だけ教えてくんろ」といわれる。(多分、日本語に翻訳すると、そんな感じだったろう。) 四平の攻防戦では、着弾した砲弾の破片が尻に突き刺さり、出血多量で瀕死の重傷を負う。治療中、心臓が停止し、ベッドから担架に移されて、死体置き場に運ばれる。だが、途中で山口の死体は担架からずり落ちて床に叩きつけられる。床に落ちた山口の死体の腕を、看護婦がいつもの習慣で脈を取る。脈が戻っている。手術室に戻され手術が続けられ、蘇生する。昏睡からさめると、日本語で「しっかりしろ」と日本人医師から励まされる。運び込まれたとき、「痛い、痛い」と呻いていたので日本人と分かったのだそうだ。 退院した頃には、四平の戦いはほぼ決着がついていた。前線に出してもらえなくて暇な山口は、四平の町を見物したくなって、砲撃直後、一人でひょこひょこと出かけていく。街中に半地下式のトーチかがあったので気軽に戸を開けてみた。なんと、国民党兵が複数いる。慌てて戸を閉める。恐怖のあまり小便をちびる。自殺しようと思って、手榴弾4個の導火線を引き抜く。だが、四秒まで数えたとき怖くなって、鉄扉を開き、手榴弾を中に投げ込む。恐る恐る扉を開けてみると、国民党兵7人の死体がばらばらに散乱している。米製自動小銃を敵兵から手に入れ、気が大きくなって、外に出る。「国府軍88師司令部」という看板が目に入ったので、入ってみる。中から自動小銃を乱射してみて遊んでいると、解放軍の掃討隊に誰何される。国府軍兵士が、解放軍の制服を着て偽装していると疑われる。疑いはなかなか晴れない。一時間ほどして、所属部隊の幹部が三人司令部にやってくる。「この馬鹿野郎、生きていたのか!」と、なんども肩を叩かれる。幹部の目には涙が光っている。 「斥候として一人、市内に入り、7人の敵を殲滅し、敵司令部に一番乗りを果たした英雄」にされてしまう。解放軍の記者に「自殺しようとしたけど意気地がなかっただけ」と説明しても取り合ってくれない。解放軍の新聞に英雄としてデカデカと掲載される。不本意である。 転戦、転戦の末、東北部はついに共産党が支配下に置く。これで、やっと家に戻れると東北出身の少年兵たちは喜ぶ。山口もこれで朝鮮に出て、帰国できると喜ぶ。だが、部隊は、北京、天津攻略に投入される。これから昭和31年までの間、山口は、人民解放軍の兵士として中国に残る。昇進もする。推薦を受けて、中国共産党の党員ともなる。終戦から11年目の正月を、内蒙古のフフホトで迎える。明治大学農学部出身の帰国華僑から戦後の日本の話を聞く。帰りたくなってたまらない。だが、共産党員である限り、帰国が認められるか分からない。離党届を出して逆に叱られる。だが、うまいこと帰国申請が受理され、天津から興安丸に乗船する。1956年8月1日、舞鶴港に帰着する。山口の13年にわたる苦闘の中国史に終止符が打たれる。戦後、日中友好商社に奉職し、今日に至る。 山口は数奇な人生を送ったが、何とか祖国に帰ることが出来た。だが、彼の同僚たち、開拓団の人たちは、見知らぬ土地で飢え死にし、凍死し、殺害され、自殺し、濁流に流された。この個々人の苦しみを背負って、山口は戦後を生きてきたのであろう。「ドラマ」になりえなかったあまたの大衆の「生と死」を思うとき、「大衆が、世界の真の姿を知っていれば、こんな不幸はおきなかった。」という思いを強くするのである。我々日本人は賢くならなければならぬ。世界で最も賢くなって、悲劇の連鎖を断ち切る役割を担う運命にあるのだ。先人たちは、辛苦の経験をしてその記録を残してくれた。その経験を明日の日本と世界のために活かして差し上げるのが現代日本人の責務である。 リチャード・コシミズでした。 参考:光人社NF文庫 「僕は八路軍の少年兵だった」 2006年10月