richardkoshimiizu's blog

衆参不正選挙で政権を詐取した自民公明偽政権は、安倍晋三偽総理の背後のユダヤ金融資本に操られ、極東で戦争を引き起こそうと画策しています。息子を戦場で犬死させたくないなら、ともに立ち上がり闘ってください。

日本を開国せしめたのは、土佐の漁師、伝蔵である。

日本を開国せしめたのは、土佐の漁師、伝蔵である。

1841年1月6日、土佐、宇佐の漁港の船頭である伝蔵は、漁がないことにいらついていた。そこで、足摺岬まで船足を伸ばした。ここまでくれば大漁だ。だが、西北の風が吹き始めた。海が荒れる。地元の漁船は次々と網を上げて港へ戻っていく。だが、伝蔵は、少しの間風がやんだがゆえに漁を続けると決断した。この海には取りきれないほどの魚がいる。この伝蔵の決断が、日本を開国させるにいたったのである。

船には、最下層の「カシキ」と呼ばれる炊事係兼雑用係の14歳の少年が乗っている。少年、万次郎は早くに父親をなくし、病弱な兄たちの代わりに働き一族を支えてきた。もちろん、学問など受けていないから読み書きはできない。伝蔵の判断は、「凶」と出た。西北の風が強く吹き始め、船は沖合いに流される。万次郎は、必死に櫓をこいで陸に戻ろうとするが、帆柱は倒れ、櫓は折れる。4-5日の漂流の後に、船は鳥島にたどり着く。船は難破し、五人の漁師たちは鳥島に何とかたどり着く。無人島だ。だが、アホウドリが無数生息している。鳥を食い、雨水を分け合って何とか命をつなぐ。六ヶ月が過ぎる。

米国マサチューセッツ州ニュ-ベッドフォード港の捕鯨船、ジョン・ハラウンド号の船長、ホイットフィールドは、鳥島アホウドリの卵を乗組員たちに食わせてやりたいと思った。そこで、船を鳥島に近づけた。すると、日本の漂流民らしき数名が助けを求めている。彼らを収容し、鯨の漁を続ける。14歳の万次郎はよく働く。船長は、この極東の少年を痛く気に入ってしまう。乗組員も少年をジョンと呼んでかわいがる。途中で万次郎以外の四人をハワイでおろし、1843年5月、船は母港に帰る。船長は、万次郎を養子にして学校に通わせる。バートレット校で高等数学、測量術、航海術、造船を学ぶ。首席で卒業したという。この間、ウォーレン・デラノなる実業家にかわいがられることになる。デラノと聞けば思い出すのは、フランクリン・デラノ・ルーズベルトである。デラノは、FDRの祖父に当たる人物だ。デラノ家は、上海でのアヘン事業で財を成した財閥であり、海運や捕鯨の大株主だ。ジョン・ハラウンド号の船主でもある。(FDRは、日米開戦前に、万次郎の長男、東一郎に私信を送っている。そして、デラノ家、ホイットフィールド家は、4代にわたって、万次郎一族と親交を続けて、現在に至っている。)

万次郎は、望郷の念強く、カリフォルニアの金鉱で金を掘って資金をため、小船を買って捕鯨船に便乗させてもらう。琉球の近くで船を下ろし、上陸する。琉球を支配する薩摩藩の役人に厳しく吟味され、鹿児島に送られる。ここで、藩主、島津斉彬の目に留まり、外国事情を説明させられる。次に土佐藩主、山内容堂に請われて土佐に里帰りする。ここでも外国事情を根掘り葉掘り聞かれる。土佐随一の知識人、川田小龍が取り調べに当たり、後日、「漂巽紀略」をまとめる。この書が、川田の私塾で教科書として採用される。坂本竜馬中岡慎太郎が、ここで学ぶ。竜馬の世界観は、万次郎に拠るところが大きい。明治維新の立役者であった薩摩と土佐に、万次郎がどれだけの影響を与えたことか.....

このころ、米国は、捕鯨船や貿易船の中継基地として日本に着目する。開港を迫りたい。幕府は、異人との戦争になると慌てふためく。外国事情を知る万次郎を江戸に呼び寄せて意見を聞くことになる。出身地の「中ノ浜」から苗字「中浜」を名乗ることを許され、幕府直参に取り立てられる。老中、阿部正弘、林大学頭、韮山代官の江川太郎左衛門らに尋問される。「開国し国を富ませ、軍備して国を守るべし」と説く。ペリーが来航する。本来なら、唯一まともな英語の話せる万次郎が通訳を勤めるべきところ、「スパイ」とみなされてはずされる。だが、咸臨丸の日米修好条約批准使節団には加えられる。通訳のはずが、船酔いで寝てばかりいる勝海舟の代わりに、荒海で船を操舵して乗り切る。船には福沢諭吉らが乗っている.....

万次郎は、薩摩の島津公、土佐の容堂公、坂本竜馬中岡慎太郎勝海舟後藤象二郎福沢諭吉らに大きな影響を与えた。明治政府の「五箇条のご誓文」のベースとなった竜馬・後藤の「船中八策」にも、万次郎の言説が大きな影響を与えた。万次郎は、日本の開国に際し、影の立役者の役割を演じた。そして、彼の背後には、米国ユダヤ財閥がいたのである。日本の開国とユダヤとは無縁ではない。米国第30代大統領カルピン・クーリッジがこういっている。「ジョン・マンの帰国は、アメリカ最初の大使を日本に送ったに等しい。なぜなら、ジョン・マンがわが国の本当の姿を、当時の日本首脳部に理解きせていたからこそ、われわれの使節ペリーは、あのような友好的な扱いを受けることができたのである」

伝蔵が漁を諦めていれば、万次郎は土佐の漁師で終わったかもしれない。よって、伝蔵は、日本を開国せしめた立役者なのである。w

(注:フリーメーなんとかのフの字も出さずに書いてみました。)