richardkoshimiizu's blog

衆参不正選挙で政権を詐取した自民公明偽政権は、安倍晋三偽総理の背後のユダヤ金融資本に操られ、極東で戦争を引き起こそうと画策しています。息子を戦場で犬死させたくないなら、ともに立ち上がり闘ってください。

与太話です。

与太話です。

朝鮮半島の全面支配を目論む新羅は、唐王朝と組み、百済高句麗を攻撃した。唐の強大な軍勢の前に、先ずは百済が滅ぼされた。(663年。白村江の戦い)次に、唐・新羅連合軍は、高句麗の都、平壌を攻め、668年、高句麗は滅亡した。(高句麗=現在の北鮮と看做して、間違いではない。)かくして、朝鮮半島は、唐に後見された新羅によって統一されたのであった。

滅亡した高句麗の王族の一部は、難を逃れて日本に亡命した。高麗若光王は、高句麗の王族であったが、現在の神奈川県平塚市・大磯町あたりに漂着し定住した。(666年に日本への使者として派遣されたという説もある。666だぜ、全く。)この地には、「高麗山」なる小山があり、山麓には高来神社がある。もとは、「こうらい」と読んでいたが、今は、なぜか「たかく」と読む。

ちなみに、高麗山に連なる「湘南平」なる景勝地の由来は......大磯、平塚の海岸風景が、中国の洞庭湖の南岸、「瀟湘湖南」に似ていると、中国からの渡来人が指摘したのが発端らしい。よって、湘南とは、本来、平塚、大磯のことである。葉山や逗子は、湘南の看板を外されたい。がはは。

高麗若光王は、大和朝廷の命で、埼玉県日高市飯能市に一族ともども移住した。そして、高麗郡の郡司を命じられ、朝鮮の文化を伝えた。現在、西武線高麗駅の入り口には、「天下大将軍・地下女将軍」の一対のトーテムポールみたいなもの(将軍標)が建てられており、近くには「高麗神社」がある。ご祭神は、高麗若光王である。近くの名所、「巾着田」も、若光王一族が残したものか?

でもって、宮司の「高麗」さんの家だった木造家屋が境内に残されている。つまり、若光王の子孫。そこで、代々の高麗家当主が子供に儒教だの四書五経だのなんたらかんたらを教えていたらしい。今のご当主は、14代目だか15代目で、いまだに「高麗(こま)さん」である。日本に赴任した韓国大使が、先ず最初にやることが、高麗神社に参拝することである。境内には、寄進者の木札がずらりと並び、歴代の韓国大使や、来日閣僚の名前が連なっている。日本の神社と違って、ガシャガシャ鳴らす鈴みたいのがない。神道の神社ではない。

さて、与太話である。高句麗の遺臣は日本に逃れた。その中に、高句麗の宰相にして、将軍であった淵蓋蘇文(えんがいそぶん)がいた。朝鮮史では665年に半島で死んだことになっているが。 淵蓋蘇文の本名は「大海人」であったが、大和朝廷に入り込み、日本王族を偽装した。彼は、「大海人皇子(おおあまのみこ)」と名乗り、壬申の乱クーデターを経て、 王権を手に入れ、天武天皇となった。

さて、こうなると、自分の身分を偽り、正統な王位継承者であると偽装する必要が出てきた。そこで、太安万侶に命じて、偽書古事記を編纂させた。天武が天智天皇の弟であったと、嘘八百を書かせた。さらには、自分の王権が、長い過去を持つ正統な日本王室であると偽装し、唐に日本の存在を容認させるのも目的のひとつであった。

かくして、朝鮮の軍人、「大海人」は日本の天皇になりすましたのである。さらには、済州島出身の女房である持統天皇もまた、日本書紀を偽造させ、王権の正当性を取り繕ったわけである。

天武、持統は、日本に仏教を定着させた。結果、肉食が忌避され、明治に至るまでの間、日本民族は肉食をせずに来た。(自らの宗教的権威を高めるため、伊勢神宮崇拝にも肩入れした。)

そもそも「天皇」の称号を使い始めたのが、天武である。三種の神器の制定、伊勢の遷宮の制定・開始をしたのも天武である。万葉集には、意味不明・解読不能の歌がたくさんある。なんのことはない。日本語の「読み」を利用して、古代朝鮮語の発音で、表現しているだけである。意味の読めない歌は、朝鮮語の音に直して読めば、1000年の謎も一瞬にして解ける。

そして、長い間、日本人は、真実の歴史を知らずに無駄な学問を続けてきたのである。がはは。

以上、与太話でした。